殺人という将来設計

2000年9月12日
世の中どうも理解できないことがいくつかある。昨年8月に起きた17歳ストーカー殺人事件の犯人の心情はその中のひとつである。
週間新潮かなんかが、その犯人の手記をすっぱ抜いていたが、なんとも残酷な酷いものであった。犯人は全て計算づくで殺人を行っていた。犯行の一年以上も前から、犯行の決意とその実行予定を書き記していたのだ。

「○月○日 今日は猫の死体を自転車の前のかごにのせて走った。この猫の代わりにNHの首が入っていたらどんなにうれしいだろう」

こんな感じである。
このNHというのは、被害者のイニシャルで、この犯人はこの女の子が好きで告白したがふられたらしい。人に見られたら恥ずかしいからイニシャルで書くとは、なんとも恋する中学生らしくてかわいいではないかとかなんとか言ってる場合ではない。後半部分が「後ろに乗ってるのがNHだったら、どんなにうれしいだろう」だったら普通のボーイズビー的恋する日記で可愛気があるのだが、生首である。もはや人に見られたら恥ずかしいからイニシャルにしようとかそういう次元ではない。見られたらその場で頭のおかしさがばれてしまうのだから、イニシャルにする必要もないではないかなどと思いながらも、イニシャルにするのはやはり少し恋する中学生的背表紙がピンクのやったら目のキラキラする男女が表紙になっている本屋の一角を異様な雰囲気で占めている少女文庫的世界を持っていたのだろうかなどとそんな疑問を考えつつも、別に殺人者が恋する気持ちを持っていようがいまいが話の筋には関係ないので戻る。

気にかかったのは、犯人の受験勉強的な計画性と将来設計である。彼は犯罪を起こすならば未成年の間にしておけば、捕まっても数年で出られるだろうから、17歳のうちに起こそうと決意したとか、出所したら長生きしたいとかなんたらと、1年以上も前から殺人後の将来設計を記している。しかも犯行を起こすカウントダウンやら、殺人の前に軽犯罪を起こしながら度胸をつけるというステップすらも設けている。なんとも受験生が受験勉強のために、基礎的なものから、応用問題、過去問題までこなし、学校卒業後にはなんたらの進路に進みたいという将来設計に似ているではないか。

受験戦争をクリアしたと思ったら、今度は就職戦線が待ち受け、それをクリアしても、社会の中で競争に勝ち抜き生活設計をしていかなければならない現代で、このような計画性はかなり求められる能力になっている。そんな先の見える人生が嫌で自殺を選ぶ人びとの気持ちはわからないでもない。だがそれだけの計画能力と根気とやる気を殺人に使うとはなんともおとろしい。いや、もしかしたら本当に怖いのは、殺人にまで計画性と将来設計を持ち出してしまうような人物が現れる、現代日本の計画型追いつけ追い越せ的将来設計必需品系社会システムなのかもしれない。


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