なんたら人はかんたらだ、的な言い方はあまり好きではないのだが、東南アジアの人々はなんともおおらかなのんびり屋が多い気がする。

特に思ったのはカンボジア。
あそこの人びとは、仕事をしているのだか、休んでいるのだか全く区別のつかない生活をしている。
日本でもたまにものすごい田舎に行くと、一時間に車が数台しか止まらないような道路沿いに、雑貨屋だかやおやだかコンビニだか、なにがなんだかわからない、それらの全部混ざった、ひどいとこだと薬屋とか酒屋とかまで混じってて、日本の酒類販売法はどうなっているんだ的なゴチャゴチャスッタモンダ店が唐突に出現して、そこのおばちゃんなんかは、客が来ても決して接客をしようとせず、のんびりテレビを見ながら茶のみ話に花を咲かせる様子の店が見受けられるが、カンボジアの店は、ほとんど全てがそんな感じである。
まさに2千万総ゴチャゴチャスッタモンダ店化現象である。(カンボジアの人口は知らないが)

まあ首都プノンペンなんかはもう少しましで、客が来ることは来るので、接客はしてくれるのだが、それでもやはりのんびり茶のみ話に花を咲かせていたり、勤務中なのだか、炊事洗濯家事状態に陥っているのだか区別がつかないところが多い。

別段もともと勤労意欲のあるほうではないので、カンボジアのせいにするのは、筋違いなのかもしれないが、それらの風景を見た後では、ますます勤労意欲減退の状態が見受けられる今日このごろである。

果たして血気盛んに5時まで男をしている人生は幸福なのか。
生活力をつけて、家族を養って、もしものことが起きたときのために多少の蓄えを備え、土日の休みやら、お盆正月休みを心の片隅の薬箱にして、ひたすら働くことに意味はあるのか。

まだ働いていないから、そのような問いについて答えは出てこないのだが、考え込んでしまうのである。

人間の認識と言うのは、所属する社会によって著しく異なるので、何が自然で、何が普通なのか、という議論をすることに、あまり価値はない。

しかし東南アジアちっくな生活と、東京あり地獄的な働きあり生活。どちらが自然で、生きている人間の生活かは、一目瞭然な気もするのである。

こういうことは、十年二十年と、働きありのように働いた人が言うと、実に含蓄があり、考えさせられるのであろうが、さすがに働きたくないなー、と常日頃公言している人間が言っても全く説得力がない。
自分ですらそう思うのだから、書かなければいいのだが、とりあえず書いてしまった、忙しいはずの年末であった。。。

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